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第22旅 被災地へ(前編)~宮古・三陸鉄道~①

皆さん、ご無沙汰しています。

東日本大震災から半年以上が経ちました。
少しずつ、復興への足音も聞こえつつも、いまだ生活再建がままならず、心に傷を抱えながら厳しい生活を送っている方が数多くいらっしゃるのだと思うと、とても胸が痛いです。

「私達を忘れないで欲しい。震災を風化させないで欲しい」
半年を振り返るテレビ番組で、被災地のある方がこう仰っていました。

以前、このブログでも少し触れましたが、震災から2ヶ月後の5月11日と12日に、横見さんとカミムラさんと私とで岩手県三陸鉄道と宮城県石巻を訪れました。(ほあしさんと編集長は仕事で行けず)

本当はもっと早く、被災地で見た現状をブログで皆さんにお伝えしたいと思っていたのですが、なかなか言葉にすることが出来ず、悶々としながら何度も書き直したりしているうちに、ずいぶんと時間が経ってしまいました。

ご報告が大変遅くなってしまって本当にすみません…。

刻一刻と変化していく被災地。
ここに書かれていることはタイムリーではありません。
でも、あの当時のことを振り返り、向き合うことは、とても大切なのだと改めて痛感しています。
忘れないように、風化させないようにするためにも。

そして、ほあしさんも、私達の訪問から2か月半後の7月25日・26日に三陸鉄道と石巻を訪れ、その前半部分の三陸鉄道編が『月刊IKKI』’11年11月号(9月25日発売)に掲載されています。

初めは、被災地に行くのが怖かったほあしさん。
そのほあしさんが勇気を振り絞って漫画にしています。

どうぞ、合わせてご一読していただければと思います。


(第22旅 被災地へ(前編)~宮古・三陸鉄道~②へ続く)
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第22旅 被災地へ(前編)~宮古・三陸鉄道~②

2011年5月11日 午前8時半頃 薄曇りの東京駅。

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横見さん、カミムラさん、私の3人は、東北新幹線「はやぶさ」の車内にて、いすみ鉄道社長の鳥塚亮さんご一行と合流。

実は、今回の被災地訪問は、前回の21旅で、いすみ鉄道を取材させてもらったことがきっかけでした。

被災地支援の為に『新・鉄子の旅』で出来ることはないだろうかと模索していた私達に、

「何も出来ないと思い悩むよりは、実際に行ってみた方がいい。この目で見てみなければ分からないことが沢山あります。GW明けに三陸鉄道へ義援金を届けに行こうと思うのですが、ご一緒に行きませんか?」

と鳥塚さんがお声をかけてくださったのです。

それまでも被災地に行きたいという思いはあっても、いざその現状を目の前にした時、受け止めきれるか不安で、なかなか実行に移すことができませんでした。

鳥塚さんのお言葉に、勇気のなかった自分の背中を押してもらえたような気がしました。


「はやぶさ」は、震災ダイヤで通常よりもゆっくりと進み、盛岡駅に着いたのは12時頃。

盛岡駅は、震災の影響はあまり感じられず、当時、節電一色だった東京よりも明るく、活気があるように見えました。

駅前でレンタカーを借りて宮古市へ向かうことに。
JR山田線を横に見ながら国道106号線を東へ。

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横見さんの希望で、途中JR山田線の「区界駅」に寄ったりしつつ…(東北地方で一番標高の高い駅なんだそう)車で進むこと2時間弱。

のどかな山の農村風景から街の風景に変わり、宮古駅が見えてきました。

宮古駅周辺は一見したところ、ほとんど津波の被害は見えません。
街は機能し、日常の生活が営まれている様子。
お店なども普通に営業しているようです。
テレビの映像で津波に飲まれる宮古港を何度も見ていたので、正直意外でした。

しかし、そこから海の方へ向かっていくと、すぐに街の景色が一変しました。


(第22旅 被災地へ(前編)~宮古・三陸鉄道~③へ続く)

第22旅 被災地へ(前編)~宮古・三陸鉄道~③

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あちこちの建物に書かれていた「解体OK」や「解体可」の赤文字。
港に近づくにつれ、どんどん増えていきます。

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根本から倒れてしまったガソリンスタンドの看板。

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その約2ヶ月半後、ほあしさん達が訪れた時も、このガソリンスタンドは解体されず、そのまま残っていたそうです。(7月25日/ほあしさん撮影)

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漁港そばの宮古市鍬ヶ崎。震災前はおそらく港町だったところ。
もはや建物の原型すら留めていない瓦礫の山、山、山…。

先ほどまでの街の風景がまるで嘘のよう。
ほんのちょっとの差でこれほど違うなんて…。

車から降りて、瓦礫の中を歩いてみました。
粉塵が舞っていて、マスクをしていても息が苦しく、咳き込んでしまいます。

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誰かがきっと大切にしていたはずの、家族の写真…。

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陸地に打ち上げられた大きな船。この辺りにもともとはスーパーがあったようです。

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宮古旧魚市場。
がらんとした魚市場に饐えたような何とも言えない異臭が漂っていました。

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そのにおいにつられてか、カラスがたくさん集まっていました。

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今は、鍬ヶ崎は瓦礫撤去が進み、建物の基礎だけが残っている状態だそう。
しかし、まだ人が住めるような状況にはほとんどなっていないようです。
(7月25日/ほあしさん撮影)

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宮古駅からすぐのJR山田線の線路。

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レールが大きく湾曲し、枕木ごと線路が地面からはがれていました。

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閉伊川にかかる山田線の鉄橋も半分以上が流され、その一部が川岸に乗り上げていました。
この鉄橋は現在宮古駅の構内に移動されているそうです)

…宮古の被災地を訪れて、覚悟はしていたにも関わらず、あまりの惨状に言葉が出ませんでした。
映像や写真、文字でその悲惨さを知ったつもりになっていましたが、実際に目の当たりにした時、やはりそれは想像以上の衝撃でした。

あっという間に港町を奪い去ってしまった津波の恐ろしさ…
鉄の塊を頑丈なコンクリートからもぎ取ってしまうその破壊力…

目の前にあるのは現実。だけど、とても信じられない。
ただただ、茫然と立ち竦むしかありませんでした。


(第22旅 被災地へ(前編)~宮古・三陸鉄道~④へ続く)

第22旅 被災地へ(前編)~宮古・三陸鉄道~④

心に重たいものを感じながら、宮古駅にある三陸鉄道の本社へ。

三陸鉄道は、東日本大震災により多大な被害を受けたにも関わらず、震災からわずか5日後の3月16日から(しかも3月中は無料で!)北リアス線の「久慈」~「陸中野田」間で、震災復興列車を走らせました。

ガソリンがなく移動手段に困っていた地元の人々にも喜ばれ「復興のシンボル」として、大きくメディアにも取り上げられました。

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 「IKKI」'11年月号『新・鉄子の旅』P.84より。(c)ほあしかのこ/小学館IKKI


その後、北リアス線の「宮古」~「小本」間も復旧していますが、南リアス線全線と北リアス線の「陸中野田」~「小本」間は今も不通のままです。

全線復旧には110億円もかかってしまうそうです。

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本社にて、いすみ鉄道社長の鳥塚さん(上写真・左)から、三陸鉄道社長、望月正彦さんへ義援金が手渡されました。

望月さん「元々三陸鉄道は、リアス式の沿岸部を走るので、津波対策用にほとんどの線路が高台やトンネルの中に敷かれています。確かに津波や地震の被害は甚大でしたが、JRなどの他の沿岸部の路線と比べると、これでもまだ被害は小さい方なんですよ。どこをどう直せばいいか、大体の目途は立っています。あとはお金の問題だけ…。いすみ鉄道さんのように、各方面の方々が三陸鉄道を応援してくださって、本当にありがたい限りです」

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宮古駅のホームには鉢植えの花が綺麗に飾られていて、乗る人たちを出迎えてくれます。
ここだけ見ると、震災前と変わらない風景のように見えます。

望月さん「宮古駅は辛うじて津波の被害は免れました。でもすぐ近く(駅から数10メートル先)のガソリンスタンドまで波が押し寄せてきて、車が4台折り重なるようにして…それは恐ろしかったですよ」

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私達が訪れた時、ちょうどホームに小本行きのディーゼル車両が停まっていました。

望月さん「震災直後も、宮古駅にこの車両が待機していたんです。駅の電気は、全て停電してしまったので、この車両を急遽”災害対策本部”にして、いろいろな指示を出していました。電気も暖房も使えたので、本当に助かりました。夜は臨時の宿泊所にもなって、私達も1週間ここに泊まり込んだんですよ。寝る場所に困って駅に集まってきた人たちをここに呼び、寝かせてあげたりもしてね、新聞紙が布団代わりでした。」

車両を走らせるための軽油の補給はどうされたんですか?と聞くと

望月さん「…ここだけの話だけど、緊急事態ということで、軽油の発売元から直接タンクで持ち込んでもらいました。危険なので、本当は消防署の許可が必要なんですけどね。あ、もちろん、後で許可は取りましたよ!」

カラリと笑う望月さん。

宮古駅を訪れる前に被災地を見たせいか、正直、もっと悲壮感が漂っている感じを想像してしまっていたのですが、三陸鉄道の職員の皆さんはずっと前向きで明るく、むしろこちらが元気づけられるくらいでした。

望月さん「三陸鉄道は地元の人達の足として、特に車に乗れない学生さんや高齢者の方々にとって、本当になくてはならない存在です。実際に、三陸鉄道が走るようになってから高校進学率も上がったんですよ。三陸鉄道を必要としてくださっている人たちのためにも、3年以内に全線復旧を実現させます…!」

望月さんの言葉は力強く、揺るぎない視線で前を向いてらっしゃいました。


(第22旅 被災地へ(前編)~宮古・三陸鉄道~⑤へ続く)

第22旅 被災地へ(前編)~宮古・三陸鉄道~⑤

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宮古駅の前で、三陸鉄道の職員さんと記念撮影。
駅に掲げられた「笑顔をつなぐ、ずっと…。」の言葉が胸に沁みました。
本当に、ずっと遠く、もっと遠くまで、つながっていけばいいなぁ。

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駅前の広場には、漁船が大漁の時に掲げる大漁旗が飾られていました。
カラフルな旗と鯉のぼりが、皆を活気づけるように、大きくはためいていました。

その後、三陸鉄道では、津波被災のレールを職員さんがひとつひとつ切り分け加工して「復興記念レール」として売り出したり(即日で完売になったそう!)、ヘッドマークのオーナー募集をしたり(こちらも今年分は完売!)、回数券や硬券、グッズを販売したりなど、様々な努力を続けてらっしゃいます。

三陸鉄道HP→http://www.sanrikutetsudou.com/
三陸鉄道オンラインショップ→http://sanrikutetsudou.shop-pro.jp/

そして、9月22日には、三陸鉄道をはじめ、震災の被害を受けた第3セクター鉄道の復旧費用の半額を政府が補助する方向で最終調整に入ったそうです。

…言霊というのは、本当にあるのかもしれない。
3年後に全線復旧は決して夢物語ではなく、みんなの思いが伝わり、努力が実れば、それはきっと可能なんだ。

いつか必ず、復旧することを信じて、これからも三陸鉄道を応援していきたいです。

この、被災地訪問をきっかけに、『新・鉄子の旅』でもいすみ鉄道や、三陸鉄道、ひたちなか海浜鉄道、銚子電鉄などの第三セクターを応援する「被災地のローカル鉄道支援」を始めました。

また、私自身もNHKの「仕事ハッケン伝」という番組で、駅員修行をさせてもらったりして、鉄道を支えている人たちの裏側を知ることが出来ました。

ただ無邪気に、鉄道旅を楽しんでいた頃と今とでは、ずいぶん意識が変わったような気がします。

もっともっと、多くの人達に鉄道の魅力を知って、乗って欲しい。
皆の「心のふるさと」としてある鉄道の風景を、大切に残していきたい。

長い目で、できることから少しずつ。
前を向いて、進んでいこうと思います。


(第22旅 被災地へ(前編)~宮古・三陸鉄道~ 完)
※次回は10/25ごろ更新予定です。
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